墨壺 ⑷ 木組み

「お父さん。昨日の話の木組み教えて!」「この木組みの技術は令和の時代で、世界でも注目されていて、それは凄い技術なんだ。お母さん。建物を建てる時、木材は半生の木を使うね」「そうね。木材を乾燥なんかさせていたら、間に合わないものね」「この半生の材を飛騨の匠はとても上手く利用する技術を持っていたんだ。ひょっとすると飛騨の匠と言われるようになったのは、この技術が基かも知れないなぁ」

「お父さん、その素晴らしい飛騨の匠の技を教えて!」「お母さん。半生の材木は沢山の水を含んでいるだろう。木が柔らかいから加工は易いのさ。しかし一番の問題が、木は年月が経つと水分が抜け、乾燥して面積が小さくなって行くんだよ。すると何が起きると思う?」「建物が歪んでしまったりしない?」「その通り!建物がガタガタになってしまうんだ。お母さんとどれだけ頑張って墨を打っても、生の材ではどうにもならないのさ」「お父さん!それを飛騨の匠はどうしたの?」「お母さん!驚かないでね。飛騨の匠は建物の重さを利用したのさ」「建物の重さ?それなあに」「本堂や五重塔などの建物になると、その重さは何十、何百トンにもなるのさ。その重さに耐える建造物を作るには、令和の時代は全てパソコンソフトを使って行うけれど、この頃は全て棟梁が図面の上で計算していたんだ。凄いだろう。お父さんも不思議でならないことは、この重量計算をどのようにしていたか?本当に不思議なんだ。一つ、重量計算を間違えれば、完成しない内に潰れてしまうからね」「お父さん!この問題も段々と解るようになるわね。楽しみだわ」

お父さんはこんな推測もしていました。「針葉樹、落葉樹など木の種類や太さによって木の乾燥度を予測し、同時に建物の重量がどれだけ掛かるかも計算して、木組みの調整をしていたのだと。この技を生み出したのは、木の国と雪国飛騨であればこそ生まれたと」お父さんの推測は本当に凄いです。

そして飛騨では「木を見ずに山を見よ」と言われます。この頃は木材の運搬は大変な作業で、出来るだけ一箇所の山で材を調整することが行われていました。そのため一本一本の木は大切にされました。

特に根の方を上に使うと逆木と言って、建物が唸ると言われ、恐れられました。木が育った方向も揃える様にするなど、それはそれは考え尽くされた木の使い方でした。令和の時代は集成材が多く使われることから、このことはすっかり忘れられてしまいました。こんな素晴らしい教えが無くなるとは本当に残念です。こんなことを考えながらお父さんと抱き合って寝ました。

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飛騨国分寺の三重塔は、建築当初は七重塔の塔であったと言われます。美しい姿は木組みの傑作です。