人生の並木道 青年期編 最終回

 経営悪化の噂から、材料の仕入れにも、支障をきたしてきました。そのため専務・常務を同伴し、岐阜市富山市名古屋市など各地の仕入れ先を回りましたが、どこも厳しい話が出ました。再建計画を説明し「全面的に飛騨信用組合がバックアップします」とお願いしました。しかし私が30歳と若かったこともあり、誠心誠意を尽くしても、交渉は難航しました。当時支払手形は、210日を超える台風手形でした。それを「180日に次は150日に短くして行きます」と交渉を進めました。それでも中々信用していただけません。お客様から「ではこの手形の裏書き保証が出来るか?」と突っ込まれました。もう後に引くことは出来ません。「分かりました。裏書きします」と言って、私個人の裏書きをしましたが、この時は手が震えました。この支払手形の件が、理事長の耳に入り「そこまでやるべきでない」とお叱りを受けました。紙一重の橋を渡りながら、何とか、この難局を乗り切ることが出来ました。

次に施工計画・原価管理・在庫管理などの仕組みづくりに着手しました。年末を控えていたことで、従業員にも再建への期待が生まれ、やる気に満ちていました。このチャンスを逃さまいと、夜を徹して再建に取り組みました。この年の年末年始の休みは元旦のみでした。そして4月に入り、ホテルや官庁関係の大きな工事の受注が決まり、再建に大きな弾みが付きました。

再建は順調に進み、一年後「売上・利益」とも見違えるような会社に生まれ変わりました。その後飛騨信用組合の優良取引先となりました。

この時、神岡支店の転勤にならなければ、本格的な「再建」という経験は出来ませんでした。この経験を今も、活性化を行う時の原点として活用しております。

次回は青年期のまとめを行います。

       紙一重     落ちる覚悟で     渡る橋

             奈落の底か    福降る杜か

 

 

人生の並木道 青年期編 ⑸

再建に取り掛かって、まず行ったことは、融資を受けていた先へ全額返済し、取引を集約し、一本化を図ったことです。これには大きな反響がありました。「年末まで持たない会社に、何故ひだしんは融資をするのか?何故下裏と言う若造の作った再建計画を信用するのか?」など非難と驚きの声が上がりました。無理もありません。融資額は1億円で、この金額は、当時の飛騨信用組合の営業利益に値する額でした。

何故危険を冒してまで取引を集約したのか?それは、父の教えで「やる限りは全責任を背負ってやれ!」と言われたからです。そして再建計画書に「取引を集約し、一本化しなければ、他行に振り回されて再建は不可能です。」と書きました。

もう後へ引くことはできません。仕事が終わると直ぐに再建の作業に入りましたが、時には朝陽が差していました。何故ここまで、再建魂に火が付いたのか?それは、親友を助けたいとの思い以上に、この会社は管工事を行い、地元ではなくてはならない大切な会社だったからです。

再建計画書に基づき親族会議を開催しました。その目的は、未払金など再建に必要な資金を手当することでした。この親族会議は大荒れをしましたが、何とか2000万円のお金が集まりました。そして土地や建物など不要資産の売却も行いました。

一番苦しんだことは、お客様の信用回復でした。この信用回復をどう図るのか?そのために「掃除」という驚きの方法を考え実行しました。その掃除とは朝7時から専務・常務と私で神岡支店の前を掃除することでした。通る人は「何故?専務と常務が掃除をしているの?」と驚いて見えました。私は専務と常務に「大きな声でおはようございます。と挨拶して下さい」とお願いしました。この効果は直ぐに現れました。「ひだしんが全面的に応援するなら、安心して工事が発注出来る」と噂が広がったのです。

この噂が噂を呼び、個人の小さな工事も受注出来るようになりました。まだまだ問題は山積みしております。続きは明日

       掃除とは     心清めて     客を呼び

            噂が噂      福を呼び込み

 

人生の並木道 青年期編 ⑷

本店から七日町支店を経て、神岡支店の勤務となりました。この神岡支店の勤務で、本格的な再建を経験しました。

10月に神岡支店に転勤し、管工事の会社を経営している、友人の所に挨拶に行きますと、顔色が冴えません。話を聞くと「12月の資金繰りが厳しく、年を越すことが難しい」と驚くような言葉が返って来ました。この会社のメインバンクは地元の金融機関でした。当店は少しの融資はありましたが、担保の保全範囲で問題はありませんでした。

早速会社に乗り込みました。この頃、友人は常務で、お兄さんが専務、社長がお父さんでした。三人の話を聞いているうちに、再建魂に火が付きました。

早速支店長に相談しますと「この会社の再建は無理だ。当店には影響が無いから、手を出さない方がよい」と取り組みを拒否されました。「休みを利用して調査しますので許可を下さい」とお願いしました。「下裏君は止めてもダメだな。無理するなよ。」と言われ調査に入りました。

調査が進むと、山のような問題が出てきました。その問題を1つ1つ整理して行きますと、再建可能との結論に至りました。早速再建計画書を作成し、支店長に提出しました。支店長は「これは時間が無いし、金額が大きく、難しいが、本部へ行って話してくる」と言って出かけられました。すると支店長から「直ぐに本部に来るように」との電話が入りました。

役員室に入りますと、理事長をはじめ全役員が待って見えました。そこで再建計画を細部に亘り説明しました。質問は沢山ありましたが、何とか答えることが出来、無事に終わりました。

そして3日後、驚くなかれ全額が承認されました。以前上司であった支店長兼常務が、この時理事長で、支店長から「この融資に大変協力的であった」と後から聞きました。さあ!本格的に再建開始です。

続きは又明日

       親友の    苦しむ姿     見兼ねては

            再建魂      燃えて嬉しき

 

 

人生の並木道 青年期編 ⑶

不思議にもこの父から託された夢は、歳を重ねれば重ねるほど、重くのしかかって来ました。父は自宅で開業しましたが、私が高校に入学すると、神岡町の市内で開業しました。毎日父の手を取り、バスで高校に通いました。

高校を卒業し、飛騨信用組合神岡支店に就職しました。この飛騨信用組合で働いたことで、経営コンサルの基礎を学ぶことが出来たと感謝しております。

この飛騨信用組合神岡支店では、良き上司に恵まれました。この頃の神岡支店は、まだ開店して2年で、支店長は常務理事を兼務されていました。支店長の方針は

①経営が悪化したお客様の面倒を見ること。

②お客様の相談に乗れる力を付けること

③再建まで出来る力を付ける付けること

でした。

支店長の期待に応えようと、若さに任せ色々なお客様の所に、飛び込んで行きました。そして沢山の再建計画書を作成し提出しました。支店長は全て承認され、融資を実行することが出来ました。後から聞いた話ですが「心配なお客もあったが、下裏君の熱意に負けたよ。それが又正解だったよ」と。

そして27歳の時、他行に勤めていた家内と結婚しました。結婚しても、仕事が優先で、子供のことは全て、家内に任せました。正に超仕事人間でした。

そして28歳の時本店へ転勤となりました。そこで与えられた役職が「本店の預金・為替などを総括する係長」でした。この席は課長職が座る席でした。28歳の若さで、こんな重要な役職が与えられるとは、夢にも思いませんでした、この時は色々な業務改善に取り組みました。懐かしい思い出です。

続きは明日

    父の手が     二人の世界     つくり上げ

            一歩の歩み      命託して

 

人生の並木道 青年期編 ⑵

父の失明で生活環境は大きく変わりました。その当時、父は地元の食品製造会社の専務をし、何不自由ない生活を送っていました。それが一夜にして、どん底の生活に追い込まれたのです。

約2年間高山日赤病院で治療を受けましたが、治ることはなく、完全に失明してしまいました。この時3歳上の姉と.6歳下の妹の5人家族でした。この時の、父と母の心境を察すると胸が痛くなります。

父は44歳になった4月に指圧師になるために、岐阜県立盲学校に入学しました。夏休みに帰ると、こんなことを言いました。[盲学校とは本当に不思議な所だ!全盲の生徒が走り回っている。そして一番不思議に思ったことは「僕らには僕らの見える世界があるの!だから何も困らないの」と言われ驚いたよ!] この言葉に私も驚きました。やはり「天は平等に無くてはならない力を与えて下さる」と感動しました。

岐阜県立盲学校で2年間学び卒業し、晴れて指圧師の道を歩みはじめました。この卒業式では、父が卒業生代表で答辞を、母が父兄代表で謝辞を述べ、県知事からも表彰されました。夫婦での答辞と謝辞は珍しかつたようで、地元の新聞にも取り上げられました。

この父のお見舞いに来て下さった方が、私の人生を決したのです。この方は第二世界大戦の戦友で、東京で経営コンサルをされていました。この方に父は憧れ、経営コンサルになりたいとの、夢を描いて見えたようです。しかし失明で、その夢は破れ、私にその夢を託されたのです。不思議なことに、この時何故か?父の夢に運命的なものを感じました。

晴れて経営コンサルとして独立し、第一歩を踏み出しました。それは父が亡くなって、2年後の43歳の時でした。夢を託されてから、30年の年月が経っていました。

続きは又明日

      父母の      二人三脚      花開き

         学びし庭に   笑顔溢れて

 

   

    

   

人生の並木道 青年期編 ⑴

今日から私の自叙伝「人生の並木道」の「30歳までの青年期編」を5回に亘り連載させていただきます。

私は1944 (昭和19年) 12月7日岐阜県飛騨市河合町天生金山で生まれました。父は学者タイプで書も嗜み、剣道の有段者で指導もしていました。母は肝っ玉母さんで、身体も声も大きく、困ったことがあると「心配しなくていいの!前を向いて歩けば、必ず道は開けるから!」と何事も➕思考で明るい人でした。

私は父からは、思考的な文章能力を、母からは丈夫な身体と大きな声と、何事も前向きに捉える良きものをいただきました。

母は「お前の生まれた所は、天生金山で、東南海地震で生まれたのだ!天からの力を授かり、金山でお金には不自由せず、おまけに地震で産まれたのだから、自信を持って生きろ!」と子供の頃から暗示をかけられて育ちました。

母は何故このような暗示をかけたのか?それは、私が4歳の時、肺炎を患い、約一年間生死をさまよったからです。この肺炎を患ったことで身体が弱くなり、小学校を卒業するまでは、風邪などを患い、よく学校を休みました。こんな身体が弱く、弱気な私を元気付けるために、母は暗示をかけたのだと思います。

この天生金山から、2歳の時父の実家がある、岐阜県飛騨市神岡町山田に転居しました。

私が小学校5年生の時、父は急に失明してしまいました。失明した原因は第二次世界大戦で、中国で飲んだメチールではないか?と言われますが、詳しいことは分かりません。

この父の失明が、私の人生を決定付けることになったのですから不思議です。

続きは又明日

      子を思う      母の暗示に     助けられ

        夢を追いかけ     古稀も過ぎ去り

 

 

 

自然の恵み

知人から「面白い写真が撮れたよ!」言われ、見せていただきました。一瞬、何処の山か?と錯覚しましたが、よく見ると雲が作り出した山の写真でした。

お盆が過ぎてからは、高山市内から乗鞍岳飛騨山脈を見ることは余り出来なくなりました。その要因は「雲」です。陽は刺すのですが、乗鞍岳飛騨山脈の峰々は、厚い雲に覆われ、顔を見せることはありません。美しい飛騨山脈の峰々を楽しみに来ていただいた、観光客の方々には申し訳ない思いです。この峰々の代わりに写真のような雲が湧き上がったのでしようか?

自然は素晴らしい芸術家です。霧や雨・陽射しを利用して、綺麗な虹も描きます。又雲は昇り竜や時には目を見張る様な綺麗な絵も描きます。

さて今日はどんな芸術家に会えるのか?楽しみながら車を走らせています。

     天一杯     キャンバスにして   描く画家

             自然の恵み      心潤い 

 

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