人生の並木道 青年期編 ⑵

父の失明で生活環境は大きく変わりました。その当時、父は地元の食品製造会社の専務をし、何不自由ない生活を送っていました。それが一夜にして、どん底の生活に追い込まれたのです。

約2年間高山日赤病院で治療を受けましたが、治ることはなく、完全に失明してしまいました。この時3歳上の姉と.6歳下の妹の5人家族でした。この時の、父と母の心境を察すると胸が痛くなります。

父は44歳になった4月に指圧師になるために、岐阜県立盲学校に入学しました。夏休みに帰ると、こんなことを言いました。[盲学校とは本当に不思議な所だ!全盲の生徒が走り回っている。そして一番不思議に思ったことは「僕らには僕らの見える世界があるの!だから何も困らないの」と言われ驚いたよ!] この言葉に私も驚きました。やはり「天は平等に無くてはならない力を与えて下さる」と感動しました。

岐阜県立盲学校で2年間学び卒業し、晴れて指圧師の道を歩みはじめました。この卒業式では、父が卒業生代表で答辞を、母が父兄代表で謝辞を述べ、県知事からも表彰されました。夫婦での答辞と謝辞は珍しかつたようで、地元の新聞にも取り上げられました。

この父のお見舞いに来て下さった方が、私の人生を決したのです。この方は第二世界大戦の戦友で、東京で経営コンサルをされていました。この方に父は憧れ、経営コンサルになりたいとの、夢を描いて見えたようです。しかし失明で、その夢は破れ、私にその夢を託されたのです。不思議なことに、この時何故か?父の夢に運命的なものを感じました。

晴れて経営コンサルとして独立し、第一歩を踏み出しました。それは父が亡くなって、2年後の43歳の時でした。夢を託されてから、30年の年月が経っていました。

続きは又明日

      父母の      二人三脚      花開き

         学びし庭に   笑顔溢れて