人生の並木道 青年期編 ⑴

今日から私の自叙伝「人生の並木道」の「30歳までの青年期編」を5回に亘り連載させていただきます。

私は1944 (昭和19年) 12月7日岐阜県飛騨市河合町天生金山で生まれました。父は学者タイプで書も嗜み、剣道の有段者で指導もしていました。母は肝っ玉母さんで、身体も声も大きく、困ったことがあると「心配しなくていいの!前を向いて歩けば、必ず道は開けるから!」と何事も➕思考で明るい人でした。

私は父からは、思考的な文章能力を、母からは丈夫な身体と大きな声と、何事も前向きに捉える良きものをいただきました。

母は「お前の生まれた所は、天生金山で、東南海地震で生まれたのだ!天からの力を授かり、金山でお金には不自由せず、おまけに地震で産まれたのだから、自信を持って生きろ!」と子供の頃から暗示をかけられて育ちました。

母は何故このような暗示をかけたのか?それは、私が4歳の時、肺炎を患い、約一年間生死をさまよったからです。この肺炎を患ったことで身体が弱くなり、小学校を卒業するまでは、風邪などを患い、よく学校を休みました。こんな身体が弱く、弱気な私を元気付けるために、母は暗示をかけたのだと思います。

この天生金山から、2歳の時父の実家がある、岐阜県飛騨市神岡町山田に転居しました。

私が小学校5年生の時、父は急に失明してしまいました。失明した原因は第二次世界大戦で、中国で飲んだメチールではないか?と言われますが、詳しいことは分かりません。

この父の失明が、私の人生を決定付けることになったのですから不思議です。

続きは又明日

      子を思う      母の暗示に     助けられ

        夢を追いかけ     古稀も過ぎ去り