「先人の知恵に学ぶ」

今回2日間の京都巡りの旅は、色々の分野で先人の知恵と美意識を学ぶことが出来ました。同時に兵火や地震などの天災で消失を繰り返しても再興される、その信仰心の厚さに感動しました。しかしこの信仰心がいくら厚くても、地方においては資金力不足から、再興不能となった神社仏閣が沢山あったと考えられます。

飛騨にも飛鳥時代(7世紀)には、沢山の寺院があり、現在14の寺院跡が確認されています。その寺院跡は高山・古川盆地と云う狭い範囲の中にあります。この古代寺院跡の配列を見ると「中門・講堂・金堂・塔」と現在の寺院の規模とは比較にならないほど大規模です。又小規模ですが、杉崎廃寺の配列は奈良法隆寺と同じです。特に注意すべき点は「基壇を二重構造にした本式の建築方式」で建造されていることです。

この時代高山・古川盆地の人口は三千人余り、寒暖の差が激しく農作物の収穫量も多くなかったと考えます。このような厳しい経済環境の中で、他の地方では想像出来ない大きな寺院がなぜ建造されたのでしょうか?。

この頃は一般的に、寺院は豪族が自分の寺を造ることが目的で、多くの寺院が造られたと言われます。飛騨の寺院は、国命で造られた「国分禅寺・国分尼寺」を除いて、12の寺院はどのようにして金銭を工面し、造られたのでしょうか?。その背景は何だったのでしょうか?。想像するだけで胸がワクワクして来ます。

古代飛騨は流刑の地でしたが、流された人の多くは高貴な人達で「罪を科すには忍びないけど流す。」と云う、そのような特別の流刑地であったと言われます。そこは僻地ではなく、高貴な人や知識人をおいておくには、ふさわしい文化的環境があったと考えられます。又寺院は高貴な人や知識人の住まいとともに、そこには都にも負けない信仰心と、文化的素養を持った人達がいたと考えます。

今回の京都巡りの旅は2日間でしたが、先人を通して飛騨の古代史を改めて学ぶ良き機会となりました。高山が小京都と言われるのはなぜか?。先人の知恵と美意識を古代史を通して再確認したいと思います。』