「人生は出会いで決まる」第8回

『今回から5人目の政井さんです。政井さんは飛騨市古川町で当時社員数40人、中国南通市で550人の縫製業を営んでみえました。今から15年前の平成6年12月突然政井さんが奥さんと私の家を訪問されました。「下裏先生は多く会社の活性化に取り組み成功されていると聞きました。ぜひ中国の会社を活性化してほしい。」との活性化依頼でした。コンサルタント料は保険全てを解約し支払うと云い、背水の陣の厳しい雰囲気がヒシヒシと伝わってきました。

文化も言葉も違う中国の会社を活性化出来るか?私は迷いましたが一念発起し、平成6年12月に契約を結び、平成7年1月20日名古屋空港から上海空港に向けて出発しました。この3日前に阪神淡路大震災があり、神戸の上空を飛びましたが、神戸の街はまだ煙りが上がり赤い火の粉さえ見えました。私は昭和19年12月7日生まれで、この日の朝、東南海地震がありました。私はこの地震で生まれたと母は言い、「地震で・天生の地で・金山で生まれたのだから自信を持って生きよ」が母の口グセでした。大きな地震が私の人生の節目、節目で起こるのですから本当に不思議です。

上海空港に着いて驚いたことは、空港に漂う嫌な臭いでした。「嫌な臭いですね。」と政井社長に言いますと「先生この臭いに慣れないと中国では暮らせません。」と言われました。日中合弁会社の活性化に本格的に取り組み、つくづくここでの生活がこの嫌な臭いとの闘いであることを思い知りました。この悪臭の原因はゴミの管理がされていないことによって発生する臭いでした。』