「人生は出会いで決まる」第4回

『私が久子さんから学んだ3つのことについて語らせて頂きます。その1つ目は「決して諦めないこと」です。私は久子さんの生き方にも感動しましたが、それ以上にお母さんの生き方に感動しました。「手足の無い我が子をいかにして一人前の社会人とするか?」久子さんの脱疽との闘いが始まった3歳以降、お母さんはこのことで頭の中はいっぱいだったと考えます。決して諦めないこと、それはお母さん自身の自分との約束事であったと考えます。「私が諦めれば我が子をどん底の世界に叩き落とす」この恐怖との闘いの日々であったと考えます。久子さんの決して諦めないこと、それはお母さんの願いそのものであったと考えます。

久子さんから学んだ2つ目は「あるある」です。久子さんの晩年の詩に「秋の朝」があります。この詩の最後は「ある ある ある みんなある さわやかな 秋の朝」とあります。手足の
無かった久子さんがなぜ「あるある」の心境になられたのでしょうか?それは短くても手も足もあることに気付かれたのです。それまでは普通の手足のある人と比較し、自分には手足は無いと思ってみえたのです。私達は久子さんの手足のように他者との比較をすることで、本来あるものを無いと思い込んでいる面が多々あるのではないでしょうか?

私も無い無いで苦しんでいました。その一つは「大学を出ていないから経営コンサルタントになる知識が無い」と大学を出た人と比較し苦しんでいました。しかし私には大学出身以上に尊い社長・専務・支配人など多くの役職と企業再建など沢山の実務経験知があることに気付いたのです。そして今、久子さんのあるあるの心境にはまだ程遠いですが、少しずつ近づきつつあると確信しています。

久子さんから学んだ3つ目は「状況をしっかり把握すること」です。久子さんが高山市天満町の自宅に住んでみえた時、近くにある木工所の移転陳情が町内の話題になりました。その陳情理由は木工所から出る木くず・おがこと騒音でした。この木工所が出来た当時は田んぼの中にあり、周りには全く問題になることはありませんでした。久子さんの所にも陳情書が回ってきました。久子さんは「この陳情書には署名しません。なぜならば木工所があることを承知の上で私はここに家を建てました。自分の都合が悪くなると相手を悪者にし、陳情するなど私は賛成できません。」この久子さんの一言で陳情は取り下げになりました。その後、移転陳情に意固地になっていた木工所の経営者は、久子さんの一言を聞き感動し木工団地に移転されたと聞きました。何事も自分の都合が悪くなると相手のせいにしてしまっている面が多々あるのでないでしょうか?。私自身も大いにあったと思います。しかし今全ては他者責任にするのではなく自己責任において対応するように努力しなければならないと思っております。』