卒業 22. 講演の限界を知る

講演回数が、年間100回を超えるようになると、売上の大半が講演収入となり、本来の活性化の収入は、大幅に減収しました。この頃は、講演に胡座をかき、本来の仕事の、活性化の勉強を疎かにしていました。

この時、家内から「お父さん!講演はいつまで続けるの?この先、講演で食べて行けるの?」と言われ、ハツ!と目が覚めました。

講演は、講演料と共に、列車はグリーン車・宿泊は講演先でトップクラスのホテルで、そこで講演と懇親会があり、至れり尽くせりでした。今まで経験したことないビッグ待遇だったのです。

この環境にどっぷりハマり、自画自賛していました。その時、家内からの一言と、もう一つは、東京での講師の忘年会で、年配の講師の方から「講演家になると終わりですよ」と忠告されたことです。この2人の言葉を聞いて、講演回数を減らそうと決心しました。

お陰様で、講演で個別相談に乗ったお客様の活性化依頼があり、講演回数を減らすことが出来ました。

この頃は、一社に一週間行っていましたので、依頼のあった仙台・函館・大分を、飛行機で飛び回り、余り自宅に帰ることはありませんでした。これだけ飛行機に乗ったのは、国内では初めてです。

一度、仙台から飛行機で大分に行く予定でしたが、仙台空港が雪のため欠航となり、東北新幹線で向かいましたが、東海道新幹線が雪のため大幅に遅れ、大分のホテルに入ったのが、午後10時という苦い経験もしました。

函館のお客様では、空港で全社員が見送って下さったことが、今も忘れられません。この時は、営業担当者と北海道を一周して来ました。懐かしい思い出です。

独立しても、地元飛騨では仕事はありませんでしたが、全国講演をしたことで、知名度も上がり、やっと仕事が入るようになりました。

    故郷の 城の外堀 やっと埋め

     母の顔にも 安堵笑顔が

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16日から降り続く雪で、高山は白銀の世界になりました。